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「私の一枚」は、本クラブの会報で連載中の記事から抜粋したものです。これは、”会員各位に1枚の写真に纏(まつ)わる「想いや思い出」を披露して貰おう”との企画から生まれました。連載して間もないですが、年代ものの写真やウンチクのある話が聞けるため好評です。写真をクリックするとフラッシュします。

 


高橋正幸        2011.04

 狭山市の南東部にある赤坂の森(別名オオタカの森)、この広大な森が私の最も身近な撮影地になっている。一年を通じて雨の降った次の日が休日であれば、霧がでることを期待しながら、必ずと言っていいほど出かける。
春、紫色の大根の花が咲き、霧に包まれている様子はなんともいえない美しさを魅せてくれる。

高橋正幸:私の一枚   ちょくちょく森に入るようになったころ、あまりにもゴミが多く捨てられているのに、うんざりすることがあり、家庭用のゴミ袋を持って、森のゴミを集めて公園の管理事務所のゴミ箱に運ぶようになった。

 事務所で埼玉緑のトラスト協会(トラスト9号地)を知リ、森の下草刈り・間伐・清掃活動などをするスタッフに名前を登録して、平成21年から参加している。活動中めまいで倒れてしまい、自宅から反対の遠い病院に救急車で運ばれたこともあったが、私の撮った新緑の写真がトラスト協会の季刊誌に掲載されてから、ますますこの森が好きになっていつた。

夏8月は何もないようであるが森に入った時に、七色に光るクモの巣を見て「これだ」と思い、繰り返し撮るようになった。秋、私の自慢の森ですが、紅葉は決してきれいだとは言えないこの時期は、他の撮影地に出かけるが、落ち葉の季節にはふたたび森に戻ってくる。
落ち葉がまだ汚れていない頃に、カサカサと音が鳴る落ち葉をふみに妻と一緒に森に入る。このころの晩秋は一年で最も好きな季節です。クラブで推薦作品に選ばれた三点もこの森で撮ったものです。
 この一枚は、今後決して撮ることが出来なくなりました。オオタカも少なくなっています。道路新設のための、森の伐採によって・・・。




 


内田十三郎        2011.02

 Hafa Adai(こんにちは)! グアム島に旅行したおり「小型機操縦体験」をしてきました。写真はハガッニャ湾を眼下に、セスナ機はグアム国際空港へ降下中、突然フロントを叩く水滴(虹)を撮ったものです。

内田十三郎:私の一枚   ’09年12月5日、雨季明けのマイクロネシアはどこまでも続く青い空と海、絶好の飛行日和でした。セスナ172に乗り込みエンジンを始動させる。操縦席ではヘッドスピーカーを着け、ブレーキとラダーペダルの感覚を確かめる。

 教官のGO−サインでエプロンに向かいました。教官はテイクオフチェックをしながら、離陸クリアランスをもらいます。いよいよ離陸です。
スロットルを押し込みフルパワー。トルクの反動とプロペラ後気流で機体が左にとられるから、右のペダルを踏みしめながら、80ノット(約150km)を維持して操縦桿を引くとファッと浮いて離陸した。ターミナルビルを下に見ながら、タワーの指示で左旋回して海岸沿いを飛びます。操縦桿を左に切ると左に曲がり、右も同様。車の運転より簡単か?なんて過信は禁物。上空800m〜1000m眼下に観光スポット恋人岬。アンダーセン空軍基地に(Andersen Air Force Base)最新鋭のB52爆撃機群がスタンバイ。
オンワードマンギラオGC、タロフォフォ、ココス島の上空を右に旋回、アプラ湾を過ぎグアム島を1周する。タワーからの着陸クリアランスをもらい降下姿勢をとる。機は180kmの速度で頭から突っ込んでいく。気流のなかで大きく揺れる。虹の中に入ったよう。水玉が綺麗。あわてて操縦を教官に代わってもらい、一瞬のチャンスを1枚撮りました。

上方にはインターナショナル・エアーポートが見えてきました。・・・機は・・・左から廻り込み、ランウエイへ高度をぐんぐん下げるが、横風にフラ付いて安定しない。こんなひどい揺れにも、冷静な教官はスロットルを引く。ようやく車輪がゴツン・・・着地・・・滑走路が長いのでエアーラインオフイス前迄ノンブレーキ走行。冷や汗をかいた。少し酔っぱらったようだ。離陸は比較的簡単ですが、着陸はぐんぐん迫り来る滑走路に緊張し、ぶれながらもやりました。1時間の体験操縦は無事終了。

 ちょっとスリルがあったけど、自信が付きました。前日、スカイダイビングに挑戦、4.2kmを跳んだ。飛べば世界が変わり、恐怖が喜びにかわる。・・・2月3日から上級フライト・タッチ&ゴーに挑戦します。デハマタ・・・Adios (チャモロ語)




 


松井秀夫        2010.11

 一昔前の写真です。山仲間と飛騨側から槍ヶ岳に登頂しようと、新穂高温泉に夜行バスで出かけた。仲間のなかに喜寿を迎える人がいたのでのんびりと鏡平小屋を目指した。

松井秀夫:私の一枚   途中からだんだんと空模様が怪しくなり、山小屋に着いた頃には本降りとなった。
一休みしながら明日の予定など話をしていた時、外が騒がしくなったので出てみるとカメラがずらりと並んでいた。

 槍、穂高方面に二重の大きな虹がかかり空、山、池、木々そしてカメラカメラマンの顔まで、すべてのものが黄金色に染まっていた。あわててポケットカメラを取りに戻って撮影したのがこの写真です。

山小屋の主人の話では十年に一度見られるかどうかの光景だとか。カメラマンがたくさんいたのは山岳写真の撮影会があるためだと、双六小屋で山岳写真家の近藤氏より聞いた。今年の最優秀賞は昨日の写真から出るだろうと言っていた。三俣蓮華岳に寄り道して硫黄のにおいのする西鎌尾根を通り、千丈沢乗越から見上げるような槍ヶ岳を目指した。喜寿を迎えるNさんの槍ヶ岳初登頂に感動していた姿が今も忘れられない。

 山小屋三泊の山行でしたが、生涯一度見られるかどうかの光景に恵まれたことは楽しい思い出の山行となりました。




 


神山精一        2010.08

 写真を現像・焼付する経験は、学生時代の文献複写でした。決まった条件での作業です。今から考えると簡単なはずですが、暗室で苦戦した記憶があります。

神山精一:私の一枚   今、デジカメで撮り、パソコンとプリンターがあれば簡単に現像・プリントが出来ます。もっとも、現像の必要もなく、カラープリントでき大変便利になりました。

初ボーナスにて求めたカメラで撮った思い出の写真は、保存が悪くプリントは見る影もありません。その上、ネガは行方不明に。それではと、10年ほど前デジカメで撮った写真を探して見ました。
プリントは整理が悪く見つかりません。しかし、データはパソコンにありました。パソコンはその間に3,4台交換しましたが、保存データとして残っていました。なんの苦もなく、以前よりきれいにプリント再現出来ました。無精者には大変便利なシステムです。

デジタルカメラの愛好家が増えているのは、このような利便性が好感されているのではと思います。
 これからも、デジカメで写真を楽しみたいと思います。




 


小川晃男        2010.06

 セントルイスはシカゴの南南西約470kmに位置する都会で、田口選手が在籍したことのあるカージナルスの本拠地としても知られている。ミシシッピ川畔の大アーチはかってここから西部開拓の集団が出発したことを記念して建造されたものである。

ミシシッピ川からニューヨークのセントラルパークより大きい公園を挟んで私が滞在したワシントン大学がある。ヨーロッパ風の落ち着いたキャンパスである。セントルイスはジャズの本場で多くの著名な音楽家を輩出している。

小川晃男:私の一枚   その一人が写真のチャック・ベリーでロックンロールの創始者である。因に白人として初めてのロックンローラーであるエルビス・プレスリーはメンフィス(セントルイスの南約460km)出身で、今や彼の家はローラーの聖地となり観光客が絶えない。

 ワシントン大学から徒歩約10分の商店街の一画にブルー・ベリーという酒場があり、ここがチャック・ベリーの出発点である。酒場の地下はコンサートホールになっており、今や老齢となったチャック・ベリーも時々演奏を行う。

5年前私がワシントン大学に滞在していた時、たまたま同じ研究室に博士研究員として滞在していた日本人夫妻にチャック・ベリーの演奏会に誘われた。その時会場の最前列に陣取り大音響の中で撮影したのがこの写真である。
チャック・ベリーの娘の演奏もあり、最後には客もステージに上がり出演者と一緒に踊る楽しい演奏会であった。




 


嘉山国子        2010.04

 「私の一枚」の順番とのお話をいただいたのですが、写真暦も浅くこれと言った写真も思いつかず、当クラブに入会するきっかけとなった、私が撮った初めての写真の中の1枚です。
2007年10月秋季撮影旅行、長野県白馬村栂池自然園、標高2000m、目の前に広がる自然のパノラマに感動と同時に感嘆の一言でした。

嘉山国子:私の一枚   思い返せば旅行2ヶ月位前、会員の方より欠員があるのでとのお誘いをいただき参加することにしたのですが、カメラの用意もありません。一眼レフカメラをお借りしたのですが、まず重さにびっくり。

 シャッターの半押が出来ず・・爆笑。またメディア・バッテリーの交換などすべて初めての経験、教えてくださった秋山さんに感謝しかありません。
その後も取扱説明書片手に孤軍奮闘、旅行まで何とか練習をいたしましたが・・。 怖いもの知らずとはいえ、今思えば無謀なチャレンジとしか思えません。

 あれから3年数ヶ月なんとか続けてこられましたのも会員の皆様のお陰と感謝いたしております。これからも勉強して、四季折々の美しさや風情、ドラマチック場面も撮り続けていきたいと思います。




 


須永元晴        2010.01

 写真を始めた頃は当然フィルムカメラを使っていた。その後、ある時からコンパクトタイプのデジタルカメラも便利に使っていた。 ある時、雑誌でデジタル一眼レフで撮った風景写真を見てその精細な描写に魅かれ思いきって使い始めた。

須永元晴:私の一枚   デジタル一眼レフの発展期と重なり、各社からでるカメラはめまぐるしく便利な新機種に切り替わり、それを持つといい写真が撮れそうな気にさせられ、危うく企業戦略に載せられそうな時もあった。

 いいカメラだからいい写真が撮れるということではないのは当然である。デジタルは便利で、誰でもそれなりの写真も、時には素晴らしい写真も撮れるから写真を趣味とする人が増えるのはいいことである。
しかし、デジタル電気製品と化した最近のカメラで気になることとして、電子部品供給切れによるカメラ使用期限の短命化や記録メディアの進化のため撮影された画像の長期保存の不透明化という問題がある。ライカや国産一眼レフ等のメカ式カメラは修理しながらとはいえ十〜数十年使える。今はやりのエコタイプといえる。

そのようなメカ式銀塩写真のテクノロジー製品が少なくなってゆくのは寂しい気がする。
 写真は半世紀も前に作られた時計でゼンマイを巻けば今でも時を刻むそうです。




 


島田憲一        2009.11

 当クラブに入会して約3年経った。腕前の方は相変わらず稚拙で何ら変化がない。隔月ごとに行われる合評会は、新鮮かつ刺激的な写真が多いがそれを吸収出来ない歯痒さ。
”写真は道具だ”とばかりカメラのグレードを上げたり、レンズのバリエーションを増やしたりもした。
しかし、現実は覆らず、仕事にかこつけて提出義務を果すだけの撮影が続いている。

島田憲一:私の一枚   そんな中、「私の一枚」の出筆当番となり写真を披露するハメと相成った。その様な写真など持ち合せない身としては、現状の反省を込めて、撮る事に楽しみを感じていた頃の”一枚”を選ぶことにした。
学生時代、ASAHI Pentax SPUを購入した。当時は、未だ、一眼レフは高価であったが、金持ちの友人が所有していたトプコンウィンクミラー(だったと思う?)に魅せられバイトをしてヤットの思いで手に入れた。

 掲載した写真はそのSPUで撮った一番最初のもので、ゼミの合宿で訪れた名古屋で撮った他愛の無い画である。が、私にとっては貴重な写真なのである。
SPUのシャッター音が好きで何処へ行くにも携帯した。記録的意味合いの濃い撮影ばかりだったが一番没頭した時期でもあった。その後は、就職に伴い徐々にカメラから離れ情熱も失せていった。

 あれから三十数年。”撮る楽しみを再び”と模索する今、クラブの先輩諸氏の行動を目の当りにすると、”情熱に勝る道具なし”を痛感している。
執筆を契機に、この写真を撮った頃の情熱を再注入できたらと切に願う昨今である。




 


秋山恒雄        2009.10

 写真は感動との出会い、その一瞬は一期一会。二度と出会えないであろうその感動を、しっかりと脳裏に画像に焼き付けておきたいものだ。
私の写真歴は浅く、柳瀬写真クラブに入会してから始めたと言うのが正しいかも知れない。それまでは観光旅行で記念に、ハイパチリが当たり前の迷写真家?であった。

秋山恒雄:私の一枚   入会して数ヶ月が過ぎたある日、メンバーから明日、日の出写真を撮りに行かないかと誘われ即時の返事。日の出2時間ほど前、辺りは暗く星がチラホラと見え隠れしていた。

 ヘッドライトを頼りに撮影の準備、未だ見ぬ光景に緊張と期待で胸は小躍りしていた。東の空が僅かに色づき、いよいよ天体シヨーの始まりだ。
ファインダーを通しての天体シヨーは初体験。日の出前の小1時間、刻々と変化する空の色調には、只々興奮と感動の連続であった。あれから数年たったが、いまだにあの時の感動が脳裏から離れず、かれこれ数十回、同じ場所に立つが、その時以上の感動のシーンに会うことがない。

 写真は一期一会、一枚一枚に心を込めて撮りたいものである。




 


渡邉晴雄        2009.08

 この写真は、2002年11月28日に北京の人民公会堂で行われた李鵬元副主席(全人代常務委員)と羽田元総理(当時、日中青年研修協会会長)との会談のスナップである。(右端は李鵬令婦人)

小泉総理の靖国参拝により日中間の外交関係は冷え切っており、民間ベースの友好関係が重要な時期だったが、この会談は隠れた日中交流史の一コマである。

渡邉晴雄:私の一枚   研修協会の役員で中国を旅行しており、その会談に臨席した。

李鵬さんは予想以上に穏和な方で“将来の正常な日中関係の実現”を期待を込めて話されていたし、撮影も許可して頂いた。

 その後で唐家旋国務院委員との会談も行われたが、そこでの写真撮影は残念ながら許可されなかった。これらの羽田元総理と中国要人との会談が、後日湖錦涛国家主席と民主党小澤代表(当時)との公式会談に結びついて行った事を思うと、とても感慨深い。

 北京での行事が終わった後、私は羽田さんのカバン持ちとして、湖南省岳陽市で開催された植樹祭に参加した。
現地では1000人以上の地元の人たち(農民、学生、軍人等)から熱烈歓迎で迎えられ、植樹や環境改善のための議論を行った事が懐かしく思い出される。




 


伊藤律子        2009.07

 遠い昔亡くなった祖父のことを思い出そうとすると、真っ先にその田舎道の記憶が蘇ってくる。
祖父は着物を尻ぱしょりして、毛の股引をあらわに、おろしたての桐の下駄をはいて前を歩いている。一時間以上もかかる遠い祖母の村里だった。子供の私には途方もない田舎に連れていかれる気がした。

伊藤律子:私の一枚   街道を歩くあいだ一言も私に言葉をかけなかった。黙々と一定の速度で歩いてきたが、在所を一望のもとに見通せる切通しまで来ると、足をとめて「ここらで一服していくべえかなー」と言った。
「そこらで腰をかけて休めや」と私に初めて言葉をかけ、斜面に腰をおろして手拭いで頭の汗をぬぐった。それから腰の煙草入れを出して一服やった。

 そのときの、キセルを水平にかまえて太い眉の下の目を細め、在所の盆地をまぶしそうに見下ろしていた祖父の姿が、いまでも記憶に浮かぶ。
そういうときの祖父の顔は、おだやかでなかなかよかった。




 


河合義典        2009.04

 昭和40年7月、羽田にて新入社員訓練中急に体験搭乗が出来ることとなった。
バイカウント828型機に搭乗し、定期便羽田―名古屋行の後より離陸し接近飛行、富士山近くまで飛行する。しかも広報のカメラマンも同乗するとのことであった。

河合義典:私の一枚   整備技術系36人中私のみカメラを持ち込んだ(兄より戴いたジャバラ式カメラでフイルムは12枚)。
飛行機に追いつき、富士山が見えてきたとの声で興奮し急いでシャッターを切っていた。
客が手を振り合図するほど接近し雁行、しかも富士山がバックであり最高の撮影ポイントとなった。

しかし、すでにフイルムは無くなっていた。残念で残念でたまらなかったが、唯一残った写真の1枚がこの写真である。
 二度と撮影出来ない写真であり、私の若き日の記念の宝物である。




 


飯島康次        2009.02

 写真を始めて約40年になります。そのうち35年は仕事としての写真です。写真を仕事とすることはクライアントがいて、その要求にそった写真を撮る事です。

飯島康次:私の一枚   結構ストレスが溜まります。今は撮りたい写真を撮りたい時に撮ってます。
 さて、私の一枚ですが、この写真は15年ほど前に蔵王スキー場で撮った1枚です。吹雪の中、広大な樹氷林に迷い、日が暮れて辺りは真っ暗になりリフトも止まった。

そんな中で撮影した1枚です。
降雪にストロボの光が反射して幻想的な写真になりました。幸い遭難しないで無事下山できました。




 


下山敏夫        2008.12

 1995年3月CASIOからデジタルカメラQV-10が世界で初めて発売され、写真にたずさわる者のみならず、デジタルに興味のある人々に大きな衝撃を与えた。
ちょうどその頃はパソコンのOSにWindows95が登場し、産業革命とも言えるほどの大きなうねりとなってデジタル化社会が始まった時である。

下山敏夫:私の一枚   私が初めてデジタルカメラを使ったのは1996年で、QV-10より少し遅れて発売されたRICOHのDC-1である。写真は1996年7月に家族で伊豆へ行った時に、会社で購入したものを借りて試し撮りしたものである。

 今振り返って見ればなんともお粗末な画質であるが、液晶モニタですぐ見られる、テレビに映して見られる、そしてパソコンを使って自分でプリントできることがなんと言っても最大の魅力であった。
程なくして私はKodakのDC210を購入した。
初めはデジカメ写真を年賀状や暑中見舞いに印刷して楽しんでいたが、しだいに大きくプリントして飾って見たいと思うようになった。デジカメの画質は撮像素子の画素数に依存する。QV-10は25万画素、DC-1は41万画素、DC210は109万画素であった。

その後の私のデジカメ使用歴はCASIO QV-2000(211万画素)、Nikon COOLPIX 5700(500万画素)、Canon EOS Kiss Digital(630万画素)となり買い換える度に大きくなった。しかし、半切サイズに印刷しようと思うと630万画素でも解像度が足りなく限界を感じてしまう。
次の新しいカメラがほしいな〜と思う今日この頃である。




 


木村隆二        2008.07

 大きな地震がありました新潟県長岡市の山古志(地震後長岡市と合併)へ、写真仲間と地震が起きる一年前に撮影に行ったその時の写真です。
とても自然豊かで風光明媚な日本の原風景が広がるところです。

初めて行きましたので役場で良い撮影場所をと訊ねたら、村の事ならと収入役さんを紹介して頂きましたのには誠に恐縮しました。

木村隆二:私の一枚   村の事は何でも知っておられ、収入役さんの話では「この村では牛の(闘牛)が行われているんですよ。又機会が有りましたら是非お出かけ下さい。」とのことでした。

 (その後、災害復興のため長岡市に仮設闘牛場で開催された闘牛を見に行きました。)
それから一年後あの大地震が起き、全村の人が一時避難する映像がテレビで映し出され、また役場の被害の状況も映され心から心配しておりました。
 最近の報道で村の方々も家に戻り災害復興に頑張っているようです。しかし以前のような風光明媚な風景に戻れるか心配しているところです。(遠くに写っている建物が役場です。)




 


佐藤昌市        2008.06

 多摩川に始まり武蔵野線下の荒川に現れたアゴヒゲアザラシのタマちゃん。ボートのデッキによじ登り色々なポーズをとって愛嬌を振りまいてくれたタマちゃん。
カメラを抱え何度も通った私もそのひとりである。
週末には三百人もの見物人が集まり出店まであった。

佐藤昌市:私の一枚   五月とは言え暑い日が続いた時は、ボートの上が暑くはないかと気になり、右目脇に釣り針が刺さった時の写真は何とも痛ましかった。
一枚の写真が語りかけてくるものは何だろう。5年前の平成十五年、タマちゃんに集まって来来た人々はミーハーが殆どだろうと思う。

 近年の不順な天候や自然破壊などで、いるはずのないアザラシが荒川に現れた!これは問題だ。
難しい事はさておいて、タマちゃんの写真を持っているだけで、注目を浴びたことを思い起こせば、写真の持つメッセージは伝えられたのだろう。




 


大舘一雄        2008.04

 「あなたは神を感じたことはありますか?」なんか新興宗教かなと思われるかもしれませんね!
私はこの作品を撮影するまでは、ただ単にハイキングの際にカメラを持ち歩き、気に入った風景をファインダーに納めたり、スナップの撮影で終わっていました。

大舘一雄:私の一枚   「多分プロやハイアマチュアが撮影する作品のような、見た人に感動を与えたり、自分で感動するような作品は撮れないだろうな!」と思っていました。

 日曜日の雨上がりの朝に庭に出てみると、花々に雫が沢山ついていて、写欲をそそられました。
カメラと三脚をセットし、私がファインダーを覗き込むと同時に辺りの空気が変変わり、朝陽が庭に注ぎこみ、雫や花を輝かせ出しました。光のショーが終わるまで、私はシャッターを押し続けていました。
 この時始めて「神」を感じたのです。それ以来又新たに「神」を感じようとファインダーを覗いているかもしれません。「あなたは神を感じたことはありますか?」




 


大橋八州男        2008.02

 写真との付き合いは55年位い前から始まりました。記憶違いもあるかと思いますがご容赦を。
父親の影響で、小学校高学年に興味を持ち玩具のような、スタート35を買って貰ったのが始まりです。
そして中等部3年より高等部卒業までの4年間が写真部部員として一番熱中した時期でした。

大橋八州男:私の一枚   使っていたカメラは、2眼レフのファーストフレックス。ライカもどきのニッカでした。今でも、故障していますが大事に持っています。さて、「私の一枚」は学生時代の体育祭に撮った障害物競走の1枚です。

 構図そして網をくぐる走者の躍動感と、網を押さえる人の笑顔の対比がいい出来なので、部員に相談してある雑誌のコンテストに出品したところ見事に入選、選評で有望な新人が現れたと評価されいい気になった作品です。

その時の景品は、革の立派なカメラケースでした。
 卒業年の昭和34年春にそっとカメラを置き、今で言うカメラ小僧が終わりました。




 


森田準之助        2007.12

 昭和8年1月頃の撮影と思われる。原板は6×9だったと思う。家に残っていたものから焼いたので、多分私の父が撮ったものであろう。
私が1歳と4〜5ヶ月、私の横でしゃがんでいるのが父である。

森田準之助:私の一枚   後ろは左から叔父(父の弟)、母(24歳ぐらい)、祖父(父方)、祖母(同)で、私以外はすべて鬼籍に入った。撮影地は静岡市内の何処か分からないが、旧制静岡高校(現静岡大)の校庭かなと思っている。

 父の作品は随分あったが、整理され又散ってしまった。
私が覚えている父の愛機はスーパーセミイコンタで、私は中学生の頃無断でそれを持ち出し、紛失してしまった。
その後無事戻って来たが、その間私の胸は、後悔と心配で押し潰される思いであった。




 


小代光夫        2007.10

 5年程前のことですが、私は妻とカナダ東部のローレンシャン高原を訪れました。ここは紅葉の名所であり高級リゾート地としても名高く、街並みが大変美しい観光地です。
私達は空からローレンシャン高原を見学するため予約していた遊覧用水上飛行機に搭乗しました。
乗客5人程で満席となり、すぐ出発しました。操縦は大変荒く、女性客は機体が揺れるたびに悲鳴を上げていました。

小代光夫:私の一枚   しかし、パイロットは全くそ知らぬ顔でした。眼下のローレンシャン高原は、想像を遥かに超えて美しく雄大で、まさしく絶景でした。私は高原をじっくりと眺め、気に入った景色が見つかると写真に撮っていました。

 機内からの写真撮影に慣れてきたころ、飛行機は突然急旋回、急降下を始めました。墜落かと思いきや飛行機は湖面に着水し、予定の遊覧飛行時間は終了しました。




 


田辺洋一        2007.08

 「おや? 誰かに見詰められている!」平成12 年6月20 日の早朝5 時、いつものように故郷の田んぼの畦でカメラを構え、朝霧に包まれる棚田を撮影しようとシャッターチャンスを待っていました。

すると後ろの方で誰かがじっと私を見詰めているような気配がしたのです。こんな早朝に誰だろう…?

田辺洋一:私の一枚   気になって、振り返ってみました。キツネでした。
田んぼの畦で 1 匹のキツネが身動きもせずに、じっと私を見詰めているではありませんか。

 ゆっくりと三脚をキツネの方に動かします 。カメラを構えます。シャッターを押します。それを待っていたかのようにキツネは私から視線を外し、田んぼの奥の森の方へ行ってしまいました。

6 日後、また私は同じ場所で棚田の撮影をしていました。
しばらくすると後ろの方で子犬のような鳴声がします。振り返ってみますと、なんとギツネが母ギツネにじゃれているではありませんか。この間のキツネに相違ありません。
野生と人間が共生できる自然の姿…それがよくいわれる原風景の一つだと思います。
 この原風景にすっかりはまってしまった私。そのきっかけがこの一枚の写真です。




 


相原俊夫        2007.06

 写真の作品とは何か・・・・・・・?
現在柳瀬写真クラブにご縁を頂き、私の思案致す課題であります。例会日時が近づきますと、どうしようか・・・・・?悩みます。

相原俊夫:私の一枚   才能 感性 知識の無い小生には悩みが、苦痛に変わります。
会員の皆様は如何ですか・・・?50数年前高等部の頃、山岳部の夏合宿に参加し、三俣蓮華山頂付近で一本立てた時に、カメラを向けた一枚のスナップです。忘れません。

 自分も苦しくて、よくシャッターを切ったと思います。バテタ仲間の姿が印象的だったのを思い出します。
朝日新聞社主催1958年全日学生コンテストに(グロッキー)が入賞した作品なのです。山の辛さ 厳しさ 苦しさを、人様に表現できた写真の一枚のように思います。

 なかなかクラブの皆様のように、作品も出来ませんが、写真だけではなく人柄 人間性 生活態度等々も、学ばして頂きたいと思っております。原点の一枚です。




 


後藤光之        2007.04

 私がカメラと付き合い始めたのは、今から50年前高校に入学し写真班に入った時からです。
当時は第一次写真ブームの真っ盛り。毎日ラジオからコマーシャルソング「僕はアマチュアカメラマン 素敵なカメラぶら下げ・・・」と云う歌が流れていて少なからず写真に興味を持っていたんだと思います。

後藤光之:私の一枚   幸い家にkodakレチナという35mmのカメラがありましたので、写真屋の息子の同級生に誘われて入部しました。
写真班の部屋は暗室も兼ねておりフイルム現像、引き伸ばし等大変面白くだんだんとのめりこんでいったようです。

 今回「私の一枚」の原稿と写真を出すように云われましたが、これといった写真がないので高校時代に撮った物を出させて貰います。
50年ぶりにプリントした写真なので調子はあんまり良くはありませんが、この写真は高等学校写真コンクールで我が校が入賞し「サン写真新聞社」の紙面に掲載された時の一枚で、駒込六義園の撮影会で撮ったものです。




 


三輪賢ニ        2007.02

 12月16日の例会で、次回の柳瀬写真クラブ会報に「私の一枚」の原稿を依頼されましたので、七戸前会長の次に2番バッターとして、通称、本郷の「アカバッケ」付近の昔の写真を紹介します。

三輪賢ニ:私の一枚   この白黒写真は1935年代に撮影されたものです。(市役所資料より引用) グリーンヒル住宅地を通りすぎ、本郷に至る道路に柳瀬川が大きく湾曲して流れる壁の北側に、地層が見事に露出した崖があります。

 この崖は昔から土地の人に「アカバッケ」と言われ、本郷の古老の話では、この付近の水田に用水を引く為の堰がありました。水量も豊富で、水もきれいで、柳瀬地区の子供たちにとり、夏は絶好の泳ぎ場所であったそうです。

写真をよく見ると、アイスキャンデー屋さんと、川で泳いでいる子供が見えます。
今は崖も見事に整備され、昔の思い出を偲ぶ風景は見当たりませんが、流域の金山公園や、遊水池付近は「カワセミ」の絶好の撮影場所として、シーズンには望遠レンズを装備したカメラマンで賑わっております。




 


七戸健ニ        2006.12

 一枚の写真と、それの短文をこれから毎月発行する会報に掲載する事にしたので、初回は私にと話しがありました。
その時は新しい会報作りの一助になればと思い引き受けたのですが、今迄に撮った写真の中から何にするか大変悩みました。

七戸健ニ:私の一枚   初めての事でもあり、いい加減な事は出来ません。面白みのある写真ではありませんが、旅行中に見た北欧の木造の教会にする事にしました。

 これに向き合った時、不思議と心のときめきを感じ、何枚か撮った中の一枚が右の写真です。